黒きサムライ(2)
- いまい いちろう
- 2020年7月9日
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天正10年6月2日(1582年6月21日)払暁、京都本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣である明智光秀に急襲された。『本能寺の変』である。勿論、弥助も本能寺に宿泊していた。境内に乱入する明智勢に、応戦した同僚達が一人また一人と討たれていく中、弥助に最後の命令が下った。
「嫡男信忠にこの異変を知らせよ。」
弥助は駆けた。本能寺は一万三千の明智勢に、十重二十重に包囲されている。重包囲の中どうやって辿り着いたかは不明だが、数百メートル先の妙覚寺にいた織田信忠への報告に成功した。信忠は本能寺に向かおうとしたが、時すでに遅しと察し、防塁のある二条御所で防戦することにした。しかしながら多勢に無勢、結局は信忠も自害する。
弥助も相当長い時間二条御所で奮戦したが、捕縛された。
弥助をどう処分するか聞かれた光秀は、
「黒奴(くろやっこ、弥助のこと)は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず。」
として処刑しなかった。この光秀の発言については、黒人に対する差別意識の表れだったとする説もあるが、人扱いすれば身分はサムライであり、斬らねばない。人扱いせずサムライでなければ斬る必要はないということであると思われる。サムライ扱いされず、弥助は一命をとりとめた。
黒きサムライはサムライではなくなった。
光秀は、弥助をインドに送り返すように命じた。しかし、命じた光秀本人も10日後には羽柴秀吉に山崎で敗戦し絶命しているので、命令が実行されたかどうかはわからない。
また、その後弥助は資料に現れることはなく、どうなったかも分からない。
弥助、消息不明。
弥助は、奴隷でもない、サムライでもない、ただの弥助になった。
はるか遠くアフリカから日本に連れて来られ、未曽有の大事件に巻き込まれた男の物語、ここに終了。
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